魚肉たんぱく同盟コラムVol.16
「食事管理は自己責任。」箱根駅伝を制した青山学院大学陸上部の2人が語る競技と食生活。
2022.04.25
2年ぶり6度目の総合優勝を果たした青山学院大学駅伝部。2015年以来圧倒的強さを誇るチームに根付くカルチャーと強力な選手層は老若男女問わず日本全国に名を轟かせている。
2022年の第98回箱根駅伝で大会新記録を更新した青学駅伝部を牽引した4区の飯田貴之選手、6区の髙橋勇輝選手。眠っていた才能を掘り起こした青学駅伝部のカルチャーと、ハードな走りの日々を支える食への考え方を主将副将に語ってもらった。
飯田貴之選手プロフィール
1999年6月24日生まれ。個人タイトルは無かったものの高校時代の走りを評価され八千代松蔭高校から青山学院大学への進学を決める。強豪校ながら1年時から箱根を走り、4年連続の箱根駅伝出場。そして最終学年では主将としてチームを牽引した。引退後は富士通へ入社し実業団選手として競技を続ける。世界で戦える選手を目指す。
髙橋勇輝選手プロフィール
1999年9月4日生まれ。中学時代、青山学院大学駅伝部の走りに魅了され長野日大高校から青山学院大学への進学を目指す。3年時に初めて箱根を疾走し区間3位の好成績で走り終えた。最終学年では副将を務め2年ぶりの総合優勝へ貢献。今年の箱根を最後に現役を引退し社会人として新たな道へ進む。
――青山学院大学入学前と入学後の陸上生活はどうでしたか?
髙橋選手:中学3年時に青山学院大学が箱根駅伝を初優勝する姿をテレビで見ていました。翌年、青山学院大学の選手が箱根を楽しそうに走って連覇する姿を見て青山学院大学を目指すようになりました。僕個人としては、高校ではインターハイの1500m6位が最高成績です。入学後は大学3年時に初めて箱根を走り、4年時は全日本と箱根に出場しました。
飯田選手:高校1年で全国高校駅伝の3区を走りました。その走りを青山学院大学の原監督が見ていたのをキッカケに、翌年声をかけてもらった形です。中学高校での個人成績は特に無く、僕にとって青山学院大学は高嶺の花でしたが、箱根を目指すなら一番強い大学で勝負したいと思い進学を決めました。高校時代は怪我が多かったので、1年目は怪我なく走ることを目標に先輩の背中を追いかけていました。結果的に1年目は怪我なく走り続けることができ、気付けば結果的に箱根駅伝を走ることもできました。3年目と4年目は怪我で少し苦しみましたが、箱根を4回走ることができたのは何よりの幸せでした。
――箱根駅伝に出場する前後で、何か変化はありましたか?
飯田選手:やはりメディアに出るので、全然違いますね。大学ではキャンパスに行く機会も少なくあまり声もかけられませんでしたが、大会の際には陸上ファンの方々に声をかけてもらいました。
――高校時代、トップの実力ではなかったが青山学院大学という環境が実力を引き上げてくれましたか?
髙橋選手:少なからずあると思います。全国から意識の高い選手が集まるのでそれに影響されました。それによって間違いなくレベルは上がったと思います。
――青山学院大学の4年間はいかがでしたか?
髙橋選手:箱根に出るために青山学院大学に入学したもののやはりレベルが高く付いていくのに必死でした。ただその辛さがあったからこそ3年目から結果が出るようになったと思います。全日本大学駅伝では区間賞も取れ、青山学院大学を選んでよかったと思っています。同期・先輩・後輩に恵まれ、全員で切磋琢磨できる環境で過ごせて幸せでした。
飯田選手:自分の可能性を再び感じられた4年間でした。中学時代は全国中学校体育大会(全中)で入賞できなかったものの9位という成績だったので全国で戦えるなという感覚がありました。ただ高校に入り個人で全国規模の大会に出れず沈んだ3年間でした。大学入学後はトラック競技では敵わないですが箱根駅伝でしっかりチームに貢献できたと思っているのでまだまだ自分もやれるぞと思えた4年間でした。競技を続ける道を選べたことも充実した4年間があったからです。
――原監督はどんな存在でしたか?
飯田選手:中学・高校の先生は厳しかったのですが、青山学院大学の4年間で怒られたことははほとんどありません。一度、練習に行く際に捻挫をしてしまった時には強く注意をされました。練習以外での不注意には厳しかった印象です。僕は普段からよく原監督にいじられていたので、僕にとっては新しい監督像でした。寮でも監督と一緒に過ごしていますが、監督だったからこそのびのびできたと思っています。
――どんな気持ちで4区と6区を走りましたか?
髙橋選手:初めて箱根駅伝に出場した3年生の時は走ってる間もずっと楽しくて「これが箱根駅伝なんだ」と感じていました。ただ4年生の時はレース中、ずっとしんどくて楽しむ余裕すらなかった。振り返っても、かなりきつかった記憶が残っています。同じ6区でも、全く違う6区でした。
箱根駅伝の後は下半身全体に疲労が溜まり、翌日は歩くのがやっとという感じでした。
飯田選手:今年は髙橋選手と同じくきつかったです。コースとしては2年生の時の山登り5区の方がきついと思うのですが、今年の4区の方が個人的にはきつかったです。
車での試走の際は最後3kmの上り坂もそこまできついと感じませんでしたが、実際に走った最後の1kmが本当にしんどかった。最終1kmはいつもラップタイムが上がるのですが、初めてラップタイムが上がらずキープするのがやっとの状態でした。
2年前に吉田祐也さんからタスキを受け取った時に感じた「やっぱり4年生すごいな」という想いを受けて、今年は差を広げた状態で5区の1年生の若林宏樹にタスキを渡せたのでほっとしました。直後のインタビューでは感極まって泣いてしまいましたが、1位をキープできて本当によかったです。
――中学高校時代の食生活はどうでしたか?
髙橋選手:正直、中学高校時代は食事について特に気にしたことがありませんでした。基本的には食べたいものを食べてきた中高時代でした。大学入学後に気をつけていた事は、箱根駅伝前はお腹にガスが溜まらないようにレース前は芋類を食べないようにしていました。
飯田選手:中高時代は実家から通っていたので、母親が食事面はサポートしてくれてました。栄養バランスを考え、毎朝ヨーグルトやフルーツを添えてバランスのとれた食事を用意してくれていたので、今思えばありがたかったなと思います。
大学に入っても食事について強く意識していたわけではありませんでしたが、平日の朝晩は寮で食事が出るのでそれを食べていました。唯一、お昼だけ好きなものを食べられる時間だったので、学校の近くのお店に行ったりコンビニで好きなものを食べたりしていましたね。食事バランスよりも、好きなものを食べるという意識でした。
ただ、大学3年の時に経験した疲労骨折を機に、カルシウムやビタミンを怪我予防のために取るようになり、寮でのご飯には牛乳と納豆を必ず追加で食べるようにしていました。
また、その年から筋力トレーニングを開始して、トレーニングをするなら今のタンパク質量では足りないとトレーナーから教えてもらい、肉を多めに食べるなど意識するようになりました。その際に、魚肉ソーセージが良いと聞いたのですが元々魚が苦手だったこともあり、スポーツEPAのサプリメントを取るようになりました。
――食事の管理はどのようにしていますか?
飯田選手:完全に自己責任ですね。1年に1回トレーナーからの栄誉講習があったのでそれを聞いて、あとは自分で判断します。監督は特別何も介入してこないので、全部自己責任。箱根駅伝で3区を走った太田は、栄養面を自分で考えて寮で自炊をしていました。
髙橋選手:僕は走りがきつい分、食事の面では好きなものを食べようという考えでした。食事を気にしなくてもタイムが出たというのもあります。結果が出ていたので、自分のアプローチは間違っていないと思っていました。
――かまぼこを食べてみて、いかがですか?
飯田選手:美味しいですね!板に付いたままかまぼこを食べたことはありませんでしたが、良いですね。これなら足形だけでなく、歯形も取れますね。笑
プロテインをやめた理由は味が美味しくなく継続できなかったからですが、このかまぼこだったら無理なく続けられますね。お世辞抜きに、美味しくて止まらないです。
――最後に、お2人の卒業後の進路について教えてください。
髙橋選手:僕は競技からは引退しますが、ここからは自己責任の世界なので、よりしっかり地に足を付けて歩んでいき、自立して社会に貢献して行きたいです。
飯田選手:僕は実業団で競技を続けるので、学生とは異なりほとんどプロに近いような形で陸上と関わり続けていくことになります。今まで以上に責任が伴いますが「青山学院大学の飯田」で終わらないように、オリンピアンの強い先輩たちの背中を見ながら、自分も世界で戦える選手になれるように一歩一歩頑張って行きます。また、息の長い選手として、行けるところまでは選手として追求したいと思っています。今日、食に関してのインタビューを受けてみて、まだまだ意識が低いと改めて実感したので、これから食の面も意識していきたいです。
書き手:尾崎聖弥