江戸時代の創業より230年余り、現在の地で地域に寄り添う酒づくりを続けてきた井上酒造。今回お話をうかがった取締役専務の井上パーソンズ丈二さんは、後継者として酒蔵の未来を担うキーマンだ。海外と日本を行き来してきた井上さんならではの視点で、日本酒文化の魅力とその未来を語っていただいた。
いまに至るまでの道のりとは?
「追及するほど新しい発見がある酒づくりにどんどんはまっていきました」
「僕は、井上酒造を実家にもつ母とアメリカ人の父の間に生まれ育ちました。神戸に生まれて、父の仕事の関係で、6歳の時に渡米。それから16歳までアメリカで過ごしました。横浜のアメリカンスクールを卒業してしばらく日本で過ごしていたのですが、ホテルマンに憧れて22歳でハワイへ留学。2年ほど経った時に、親と叔父に、井上酒造の跡取りとして戻ってくるように言われて帰国したんです。それから約20年、酒づくりに励む毎日です。
井上酒造は母の実家なので、子どもの頃からよく遊びに来ていて、中学生くらいになると手伝いもたまにしていました。夏は宅配についていってお客様と話したり、冬はラベル貼りなんかもしたりしていましたね。なので、親しみはありましたが、まさか自分が働くことになるとは思っていませんでした。
戻ってこいと言われた時は、ホテルマンになりたい気持ちが強かったので葛藤もありました。でも、子どもの頃からの思い出が詰まった蔵ですし、おばあちゃん子だったこともあり、祖母が大切にしているものを守りたいという気持ちで決意しました。」
「入社してからは本当に大変でした。もうカルチャーショックの連続です(笑)。上下関係とか、敬語とか、職人の世界なので当然厳しい。一方でアメリカ育ちの僕にはそんな感覚はないんですよね。しかも当時は『僕が跡取りだ』という気持ちも出ていたので、どうしてもぎくしゃくしてしまったのだと思います。
それでも最初から酒づくりは好きでした。同じ品種の米でも年によって味や香りが変わりますし、酵母の違いでも変化がある。酵母や麹菌という生き物が相手というのがおもしろい。追及するほど新しい発見がある酒づくりにどんどんはまっていきました。カルチャーショックで外の世界や人との付き合いは大変だったけれど、蔵の中での酒との対話の時間は本当に楽しかったです」
客観的に見て、自身はどんなヒト?
「アメリカと日本で暮らしたからこそ分かるそれぞれの魅力がある」
「「自分のことは“なんちゃって外国人”だと思っています(笑)。日本では“なんちゃってアメリカ人”。逆にアメリカでは“なんちゃって日本人”。例えば、アメリカ人には『あなたたちにパールハーバーがやられた』と言われるし、日本人には『あなたたちに広島と長崎がやられた』と言われるし、両方言われてしまうので。アイデンティティを保つのに苦しんだ時期もありました。
でも、アメリカと日本の両方で暮らしたことがあるからこそ分かる“それぞれの国のよさ”というのもありますよね。僕は今後、日本酒文化の魅力を海外に積極的に発信していきたいと思っており、もちろん英語も話すので、外国の方の酒蔵見学も積極的に受けています。
また、僕にしかできないアピール方法があると思っています。たとえば、地元のキヌヒカリ米からつくる『海と大地』というお酒。小田原かまぼこをつくる際に出る魚のアラからつくった肥料から育てたお米が材料なのですが、個性的な味わいも、その背景にある循環のストーリーも海外市場では魅力的だと思います」
専務取締役として最も大事にしていること
「試行錯誤を続ける攻めの姿勢は大事にしたいですね」
「今の井上酒造があるのは、歴代のつくり手たちがそれぞれの時代で『井上酒造がつくる日本酒とは何か』を自らに問い続けた探究心の賜物だと思っています。
人々の好みは時代の変遷とともに移り変わっていくものですし、ここ数年で日本酒の飲み手にも変化が出てきました。老若男女を問わず日本酒を気軽に楽しむ方が増え、さらには国内だけではなく、海外からも日本酒に大きな注目が集まる時代となっています。
これからの時代に井上酒造がつくる日本酒とは何なのか? と、代々のつくり手たちがそうしてきたように、試行錯誤を続ける攻めの姿勢は大事にしたいですね」
これからの展望
「入門編からコアなものまで、奥行きのある酒づくりをしたい」
「時代に合った酒づくりとして、特に日本酒を今まであまり飲んだことがない方々に向けた商品開発に力を入れています。アルコール度数を10度に抑えた果実酒のような日本酒『左岸』や、小田原のみかんとブレンドした日本酒リキュール『おひるねみかん酒スパークリング』などをつくることで、日本酒への門戸を広げています」
「一方で、歴史や伝統へのリスペクトを込めて、昔の銘柄の復刻版をつくりたいという気持ちもあるんです。井上酒造では終戦前後まで『國基(こくき)』というブランドを出荷していたのですが、当時の味わいを再現した“ザ・日本酒”みたいなものをつくりたいですね。どんな製法だったのか、どんな味だったのか、研究する必要がありますが、江戸時代から酒を醸している弊社だからこそできる試みだと思っています。
日本酒はこうあるべきだという固定概念は打ち破っていけばいいと思っています。伝統的な日本酒の味も、日本酒を果汁で割るのも大正解。お客様、一人ひとりが楽しめる日本酒をいろいろ提案していきたいですね」
ヒトに伝えたい小田原の魅力
「小田原とその周辺は酒蔵を巡る絶好のロケーションです」
「小田原とその周辺に酒蔵がたくさんあることって意外と知られていませんよね。神奈川県内の13蔵のうち御殿場線沿線には井上酒造を含めて3つの蔵が点在しているので、それらをスタンプラリーのように巡るのも楽しいと思うんです。
御殿場線は1時間にほぼ1本で、不便といえば不便ですが、あえてそれを利用して次の電車までの待ち時間で酒蔵を訪れるのもいいですよね。周囲には山も川も海もあって、富士山も望めて、田んぼでお米をつくっているところも見えて、酒蔵を巡る絶好のロケーションです。
カリフォルニアのワイン名所であるナパバレーでも、ぶどう畑が広がる壮大な風景の中でワインを楽しむワイナリーツアーが人気です。東京から1時間足らずで、時間の流れが全く異なる豊かな世界に浸れるのは小田原ならでは。日本酒と共に贅沢な時間を過ごしていただきたいですね」
まとめ
”酒蔵は日本酒好きがいくもの”という思い込みが、井上さんから型にはまらない斬新なアイデアの数々を聞いているうちに、すっと消えてなくなっていた。
むしろ日本酒を飲んだことがない人にこそ、井上酒造を訪れて、井上さんとの会話を楽しんでほしい。酒づくりの奥深い話、酒蔵の歴史、そして自分にあった日本酒の嗜み方を教えてもらえるはずだ。ここに来たら、日本酒という新たな楽しみが増えるかもしれない。